HISTORY 歴史

城北の山の手
ゆかしい歴史と江戸情緒あふれる
下町の温かみが残る駅前エリア

由緒ある親しみにあふれた街

徳川家康が江戸に入城し江戸城下の整備に努める頃から、赤羽根村は江戸という一大消費地に対して米、野菜、その他の農作物を供給する農村として豊かに存在していました。また、岩通の宿は江戸から諸国に通じる五街道のうちの中山道を本郷の追分で分かれて、飛鳥山を通り王子から稲村・赤羽を経て岩淵の宿へと続く岩槻街道(御成街道)の宿場として賑わいをみせていました。さらに、両岸に樹木を茂らせ、所々に湧水を滝状に落下させたり、河窟を覗かせたりして美しい渓谷を見せる石神井川は江戸市民の川遊びの名所として親しまれていました。飛島山は花見、蛍狩り、秋の虫開き、冬の雪見など、四季を通じての憩いの地として、広重の錦絵にも度々登場する江戸市内でも屈指の景勝地でした。江戸のその昔から、由緒ある町の歴史を継承する北区赤羽界隈、その良き面影を今に伝える親しみにあふれた街になっています。

農村から都市へ

明治16年に高崎線が「熊谷」駅まで開通し、さらに明治18年には「赤羽」駅~「品川」駅間の山手線が開通すると、一躍交通の要所となった赤羽は次第に人口も増加し、住宅街、商店街が増えて、街は農村型から都市型へと転換が図られました。

城北の山の手

昭和30年代になると、西口地区には都営桐ヶ丘団地や公団赤羽台団地などの住宅が次々と建設され、赤羽は急激に住宅地化していきました。昭和20年に13万人台だった北区の総人口も昭和30年には35万人台へ、昭和40年には45万人台へと増えていきました。武蔵野台地の高台に位置する良質な立地、住環境に再び日が向けられ、“城北の山の手”との呼び名も高い温かみのある土地になっています。
◇上記の内容・写真は分譲当時のパンフレットに記載されている内容を基に掲載しております。
◇掲載の参考写真、参考イラスト、概念図については、実際のものとは多少異なります。